私たちの生活の中で入っているコミュニティと、そこで出会う人々。
どこでもだれにでも、同じように接することができる方がいます。
どこのだれかによって、ふさわしい接し方を選べる方もいます。
“どこのだれか”は、お互いの立場の関係性だったり、こころの距離だったり。
だいじにしたいのは、”あなたにとってその人たちとの居心地はどう?”ということ。
そのコミュニティがどういう人たちのバランスで成り立っているのか。
そして、あなた自身はどうなのか。
それはお互いが “誰の視点に立って会話をしているのか”、これをみるとわかると思います。
あなたの視点はどうでしょうか。
また、ついつい気になってしまうあの人の視点はどうでしょうか。
会話の視点いろいろ
会話の中でもっともよく使われる種類の言葉は、「人称とその数」。
表の例にするとこんな感じです。
| 単数(個人) | 複数 (〇〇たち、〇〇ら、〇〇方) | |
| 一人称 | 私、僕、俺、自分、(自分の)名前 | 私たち、僕ら、俺ら、うちら |
| 二人称 | あなた、君、おまえ、(相手の)名前 | あなた方、君たち、おまえら |
| 三人称 | 彼、彼女、あの人、あいつ、あの方 | あの人たち、あいつら |
気にしたいのは、どこのだれと話すときに、どのくらいの視点の割合なのかということです。
場所によって、立場によって、こころの距離によって変わりますね。
家、学校、会社、サークル、カフェ、公園、SNS。
家族、親戚、親友、先輩、上司、後輩、部下、知人、一見さん。
「あの人といると気分がいいな。」と思える人との、あなたとあの人の会話の視点。
その方は明確に”あなた”のことを意識して、心地よくしゃべらせてもらっているのかも。
その方は”あなた”を尊重してくれているし、また、”私(その方自身)”も尊重できているのかも。
「アノヒトとは落ち込むなあ。」と思える人との、あなたとアノヒトの会話の視点。
アノヒトにはあなたの話を聞いてもらえずに、いつも”ワタシがワタシが”と主張しているのかも。
もしくは、”これはアナタのためを思って”という、ずるい言葉を投げかけてくるのかも。
ちょっと思い返してみると、見えてくるものがあると思います。
居心地の置きどころ
これら会話の視点は、相手によって変わるでしょう。
それに加えて、このようにも感じられるんです。
“あの人にとって、あなたはどうありたいのか”
ということ。
この居心地の置きどころによって、視点は習慣的に選ばれてきたのではないでしょうか。
気分がよくなるあの人との会話は、「あの人とは気分よく話したい」という居心地の置きどころ。
落ち込んでしまうアノヒトとの会話は、「アノヒトとはあんまり仲良くしたくない」という居心地の置きどころ。
このように思えてくるときがあります。
視点の選ばれ方(個人)
「私」視点が多めのとき。
「自分を理解してもらえている」という居心地を求めているのかもしれません。
「絶え間ない愛と称賛がもらえる」という居心地を求めているのかもしれません。
世界中のあらゆる人がいちばん好きな話題は、その人自身のことらしいですからね。
人類みなアイラブミー。
「自分大好き!」な方も、「私なんて…」という方も、興味の対象はその方自身。
自分が思っているほど人って自分のこと見ていないんだなと思えば、ラクになることもあります。
同時にちょっとさびしくなることもあります。
「あなた」視点が多めのとき。
「あなたの幸せが私の幸せ」という居心地をつくり出せているのかもしれません。
「自分を出すこと」にあまりいい居心地を感じられないのかもしれません。
ものは言いようですね。
あと、あえて人称を使うことを避ける方もいるでしょう。
日本語はこのあたり表現の自由度がありますから。
そして、隠れた部分は文脈で補うことができますので、だれの視点で話しているかはわかります。
「あの人」視点が多めのとき。
「あの人には言えないことを共有すること」で居心地のよさを感じているのかもしれません。
この視点は、いわゆるうわさ話になりますね。
ほめているのか、わるぐちを言っているのか、話題がはっきりしやすいですね。
お互いにとっての居心地のよさというものが、わかりやすい気がします。
視点の選ばれ方(複数)
「私たち」視点が多めのとき。
「あなたと同じように私も尊重すること」に居心地のよさが見出せているのかもしれません。
「まわりの人たちとは違う特別な優越感に浸ること」で居心地がいいのかもしれません。
コミュニティ内の結束力が生まれ、安心できる気がします。
安心できると本来の個性が出しやすくなって、つよい人たちになれる気がします。
しかしこの範囲が狭いと、どうにも排他的になってしまうおそれも感じます。
「あなたたち」視点が多めのとき。
「あらゆる人の幸せが私の幸せ」という居心地でいられているのかもしれません。
「一緒になること」に居心地のよさを感じられないのかもしれません。
すばらしいチームのリーダーは、チームの功績をほめたたえるときには「あなたたち」視点。
結果が出せなかったときには「私たち」視点を使い、共に責任を負うそうです。
また、世の中を皮肉った人が「私はあなたたちとは違う」というときにも使われるので、言葉は実に居心地のあり方次第だと思います。
「あの人たち」視点が多めのとき。
「私たちとの同じ点や違う点を共有すること」で居心地のよさを感じているのかもしれません。
「〇〇たち」というのはそのくくり方にもさまざま。
同じ目的をもった人の集まりとしての「〇〇たち」と、同じ属性(地域、年代、性別、…)をもった人の集まりとしての「〇〇たち」。
話し手が指す言葉の意味を、受け手は独自のフィルターで察知します。
それもまた居心地次第で、一緒にされてうれしいのか、そうでないかが決まります。
考えていて難しくなりました。
こういった人称が会話の中で使われるときに、その人たちの感情や意図、会話の盛り上がり具合や居心地はどうだったかを思い出しながら書きました。
すべての例を挙げることはできませんが、このような側面はあると思います。
トータルのバランス
私たちにはそれぞれ、コミュニティごとに期待される役割があると思います。
外ではお世話係、家ではお世話され係、地域では、SNSでは、駅では、店では。
あの人に対しては「あなた」視点多めで、この人に対しては「私」視点多め。
もし理想のバランスがあるとすれば、それはどんな割合なんでしょうね。
中庸(ものごとの偏りがないこと)でいることをよしとするときには、「私」と「あなた」が同じくらいの割合でしょうか。
人称一覧の中では、「私たち」がもっとも中庸に近い気がします。
それも、「私たち」の範囲を限りなく大きくしていったものほど中庸になっていくと感じます。
あらゆる人の会話の視点が大きな「私たち」になったとき、どうなるんでしょう。
うまくバランスがとれるといいですね。
あなた自身のバランスもそうだし、いずれは接していく方々との個々の関係においても。
改めて、あなたやまわりの方の視点はどうでしょうか。



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